カタカナで記す「ミライ」には
なぜか時空を感じられなくて、
同じくカタカナの「ジブン」にも
体温を感じられない。
ネーミングやスローガンなどで
意図的にそう表現する場合は
まあ百歩譲ってわからなくもない。
でも、文字をどのように記載するかよって
言葉に本来備わっている生命力が失われているように思えて
どうも違和感を拭いきれない。
「ミライ」や「ジブン」は時々見ることがあるけど
そういえば「カコ」や「タニン」は
今まで見たことないなぁ、とか、
そこに何かしら意味があるようにも思えたりして。
これらはほんの一例で、ずっと前から
巷に溢れる様々な文字表現にいろいろ思うことがある。
ずっと昔、「華々しい」を
「ハナバナシイ」と表したコピーライターがいて、
あ、この人とは分かり合えないな、、と思ったことがある。
漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字、
どの文字で表現するかによって同じ言葉でも生命力は変わる。
声で発する「言霊」と同様に、表し方にも霊は宿るはず。
その感性には、常に敏感でいたい。
